小林幸子さんは、今でこそ、押しも押されぬ歌手ですが、10歳で華々しいデビューを果たした後、約10年間の低迷期を乗り越えてきました。 25歳で「おもいで酒」が大ヒットしたことで、紅白歌合戦初出場を果たし、レコード大賞も受賞するなど、日本を代表する歌手「小林幸子」の名を轟かせることになりました。
小林幸子さんは、のど自慢ゲストで出演!
小林幸子さんが、又、のど自慢にゲスト出演されることが決まりました。
9月4日 に福島県 南会津郡 南会津町で行われる「のど自慢」です!
今までも、何度か「小林幸子」さんがゲスト出演された、「のど自慢」を拝見いたしました。
本当に楽しそうに、笑顔で温かい言葉を出演者の方に掛けておられます。
苦労の時代を、ご自身が経験しておられるだけあって、言葉に、重みと温かさを感じます。
今まで、NHKに支えられ、NHKに気に入られてきて、紅白歌合戦初出場後連続33回出場を果たした「小林幸子さん」。 NHKに対しては、感謝してもしきれないのだと思われます。
きっと、今後も、ゲストとして、のど自慢からオファーがあれば、きっと喜んで受けておられると思います。今後も、ご活躍を期待しています。
小林幸子さんとは?
小林 幸子(こばやし さちこ、1953年12月5日 – )は、日本の歌手、女優、タレント、実業家、YouTuber。本名:林 幸子(はやし さちこ)。旧姓:小林。血液型はA型。身長165cm。幸子プロモーション所属。漫画家の小林まこととは親戚である。
引用元:Wikipedia
小林幸子さんは、1953年(昭和28年) 12月5日に新潟市で生まれました。1963年(当時9歳)の時に、TBSテレビ番組『歌まね読本』(歌謡バラエティ番組)に出演して、グランドチャンピオンになりました。その時に、審査員長だった「古賀政男」氏にスカウトを受けました。 古賀政男さんと言えば、昭和の音楽界をけん引してきた大御所です。私の母なんかは、神様のように奉っていましたし、貧しい中で、古賀政男のレコードだけは、何故か所有していました。後で聞いたところ、あまりに貧しい生活をしている母に対して、当時新聞社の芸能コーナーを担当していた叔父が、プレゼントしてくれたものでした。 そして、古賀政男先生に見出された、小林幸子さんは、翌年、1964年に、わずか10歳で「ウソツキ鴎(カモメ)」でデビューされました。 しかし、デビューが早すぎたのでしょうか?その後に苦労が待ち受けていました。
小林幸子さんは苦労人!
小林幸子さんは、1964年(昭和39年)には新潟市内で肉屋を営んでいた家族とともに上京して古賀事務所に所属しました。古賀政男作曲の『ウソツキ鴎(カモメ)』でデビューしました。デビュー曲がレコード販売20万枚の大ヒット曲となりました。
小林幸子さんは、その後、1966年(昭和41年)7月30日から1968年(昭和43年)1月27日まで、日本テレビの『九ちゃん』(バラエティ番組)に「チビッコトリオ」としてレギュラー出演しました。 1968年(昭和43年)にはNET(現:テレビ朝日)で放映された青春ドラマに主演し、女優として歩み始めました。時に小林幸子さんは12歳です。その時に女優を演じた青春ドラマの主題歌(エンディング曲)と挿入歌も歌唱しました。 まさに順風満帆の出だしだったと思われました。しかし、本業の歌手業ではヒット曲が続きませんでした。更に、お手本とし、見本にし、目標にしていた、「昭和の歌姫『美空ひばりさん』」の母親から、「あまりにも、「ひばり」を模倣している」との嫌悪感を示され、敬遠されてしまいました。美空ひばりさんの母親とは、後に和解できたそうですが、仕事が激減していき、約10年の長い不遇の時代が続きます。 しかし、美空ひばりさんの母親から「あまりにも、「ひばり」を模倣している」と言われたのは、小林幸子さんにとってはショックだったでしょうが、ある面、それだけ「模倣」できる技術をお持ちだったという事ですね。このことが、小林幸子さんの自信につながり、「歌の世界で生きていける!」と言う確信に変わったから、下記の苦難にも耐えられたのだと私は考えます。
その低迷期には約10年間、一人で全国各地を行脚(あんぎゃ)し、地方興行の中で多くの苦労を経験しました。昼間は各地の興行を行いながら地元のレコード店やラジオ局、有線放送局などへ一人で 売り込み(営業)キャンペーンをしたりしました。夜には、毎晩のように、深夜まで飲み屋やキャバレーなどで、泥酔客に心無い言葉を浴びせられたり、絡まれたりしながら歌い続けていました。 もし、全国行脚中に、「美空ひばりにそっくり」とか「美空ひばりの物真似」とか言われていたら、モチベーション上がりますよね。 その頃は、そんな時代ではなかったですが、今なら、物真似歌手で生計を立てている人もいます。他の歌手の「持ち歌」をカバーすることもあります。しかも、先日とび込んできたニュースでは、「なりきりマイク」なるものが、「ヤマハ」から開発されたとか! 小林幸子さんがしてきた事が、現在では当たり前になりつつあり、その需要も増えてきていると思うのです。 その間に、【小林幸子】(日本コロムビア)→【小林さち子】(ビクターエンターテイメント)→【岡真由美】(テイチク)→【小林幸子】(ワーナー・パイオニア)と、何度も【改名】したり(所属会社)を変えたりしました。 これって、かなりの精神的な負担と、身体的な労力がかかりますよね。【改名】には、宣伝するのに莫大な経費が必要です。特に、現在のようにインターネットが普及してない頃は。(所属会社)変更には、契約の内容確認やら、人間関係構築とか、様々な難関が待ち受けています。 小林幸子さんが、確か、紅白歌合戦に出場された時の事だったと思いますが、よく覚えている、司会者の言葉が残っています。「本当に、苦労して、苦労して、歌の世界に帰ってきてくれた、小林幸子さんです。」と。
小林幸子さんは、紅白初出場後連続33回出場!
1974年(昭和49年)から、第一プロダクションに移籍した小林幸子さん。1979年(昭和54年)に『おもいで酒』をリリースしてから徐々に知名度が上がりました。レコード販売200万枚の大ヒットです。そして、とうとう、この年の暮れに、『第30回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たします。同時期に、「全日本有線放送大賞 『グランプリ』」と「第21回日本レコード大賞『最優秀歌唱賞』」を受賞されます。 その、実績を携えて、何と、初出場から、紅白歌合戦連続33回受賞という快挙を成し遂げます。小林幸子は苦労人!紅白初出場後連続33回出場!華やかな衣装も定番に! 小林幸子さんは、紅白歌合戦を彩る、華やかな(ど派手な!)衣装でも、有名です!何と、紅白の為の衣装代は億を超えるらしいです! 何故、そこまでして、ど派手な衣装にこだわるのか? エンターテイメントを大切にしている、小林幸子さんのこだわりだという説が有力ですが、私は、別の理由もあると思います。 それは、美空ひばりさんの存在です。美空ひばりさんの母親から言われた「ひばりの模倣」は、「娘の真似をしてくれるな!迷惑だ!」という意味にとらえられます。しかし、小林幸子さんは、「そこまで言われるのならば、本当に似ているのだから、「ひばり」第二世になってやろう」と思った面もあるのではないかと思うのです。美空ひばりさんも、ど派手な衣装で、紅白を彩ってきました。 「ひばり」の模倣と言われたのなら、それを越えてやろうという気概を感じるのです。
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