美川憲一は、デビュー当時は青春歌謡の歌手で男装・ 美少年キャラクターで売り出した歌手です。俳優やタレント等、 芸能界で幅広く活躍されています。
美川憲一が7億円の自宅売却!
歌手の美川憲一が、世田谷区にある「7億円自宅」 を売却していた。2022年5月21日、『スポニチアネックス』 によって報じられました。
売却したのは昨年12月のことです。これまで同居してきた2人の母が亡くなり、 美川自身も現在は渋谷のマンションで暮らしています。「 固定資産税や維持費も結構大きかった」などと理由を明かし、 7億円の「3分の1くらい」の額で手を打ったといいます。 「美川さんは、2020年、FLASHの取材に『 生みの母と育ての母、自分にとっての2人の母親を「 幸せにしたい」という気持ちで歌ってきました』と語っています。 そうした思いが豪邸建設につながったわけですが、実は、 美川さん自身は、お金や豪邸に興味はなかったそうです。 引用元:スポニチアネックス
美川憲一さんがいかに、二人の母親に、感謝し、 恩を感じたのかがよくわかります。
そして、その恩に報いる為に、人生の決断を下し、目一杯働き、 逮捕後も、這い上がってこられたことに驚きを禁じ得ません。
美川憲一が母(産み母と育て母)達(二人?)の為に買った豪邸が不要に!
美川憲一さんには、母親が二人おられました。しかも、
お一人は、産みの母親(妹さん)です。一人で育てていた生みの母親が大病を患いました。
お二人目の母の姉夫婦が2歳の美川憲一を引き取ったという事です。
かなり、複雑な事情がおありのようです。
生い立ちは複雑で、
母が妻子ある交際相手との間に出産した子供が由一(美川の本名) だった。一人で育てていた母が肺結核を患い、 2歳の時に母の姉夫婦に引き取られた[4]。 実の親ではないことを知ったのは中学1年生の時だった[4]。「 2人の母親」を食べさせるために芸能界を目指し、 高校を1年で中退し東宝芸能学校に入学[4]。1964年、 第17期「大映ニューフェイス」に合格する。なお、1996年に 育ての母が死去[5]。2006年に生みの母が死去している[ 6]。
過去に二度逮捕された大麻事件について、美川は『バイキング』(
フジテレビ、2016年9月7日放送)にて、「 クスリを一時やめても、また誘惑にかられて悪魔がささやく」「 人生ダメになって死んでしまいたいというくらいにギリギリに追い 込まれる」と、自らの体験談を語っている。 美川は二度の大麻事件から自分が立ち直り、 再び歌手として再起出来たのは「 生みの母と育ての母の二人の存在があったから。 背負うものがあったから頑張れて、地獄から這い上がれたんです」 と述懐している[31]。 引用元:Wikipedia
「二人の母親を食べさせるために」高校を中退して、 芸能界入りを目指すなんて!
何と志の高い、優しい息子さんなんでしょう。
きっと、お二人のお母様も、心配しつつ、 感謝しかなかったと思います。
高校一年生と言えば15・6歳です。
背負うものが大きすぎます。
しかも、大麻で二度逮捕されながら、 地獄から這い上がった美川憲一さん。
「背負うものが大きかったから這い上がれた。」 と言う言葉に美川憲一さんの思いが込められています。
二人の母親が居たからこそ、頑張れた!
感謝の言葉だと思えます。
又、二人の母親が共にご健康で、順風満帆な生活であれば、 今の美川憲一さんは存在しなかったと思えます。
そのお二人の母が亡くなってしまった今は、もう一人で暮らすには(余りある)為に、手放す決断をされたそうです。
そして、売却益は、自分自身の投資に使われるそうです。
潔く、かっこいいです。
美川憲一さんのプロフィール
引用元:Wikipedia
美川は、(美しく、川のように細く長く) との願いから付けられたと言われています。
1965年に青春歌謡「だけどだけど」で歌手デビューした。
1966年には、「柳ヶ瀬ブルース」が大ヒットしました。
1967年に、「新潟ブルース」を発売。大ヒットしなかったが、 カラオケで広く歌われました。
1968年に、「釧路の夜」がヒット。 紅白歌合戦にも出場しました。
「釧路の夜」も映画化され、美川憲一も出演します。
ご当地ソングのヒットと映画出演が続き、 美川憲一の狙っていた青春歌謡路線から外れましたが、 芸能界で着々と人気を高めていきます。
その他、
1970年に、「みれん町」「大坂の夜」「おんなの朝」 とヒット曲を出し続けました。
因みに「おんなの朝」はNHKから(歌唱禁止曲)とされました。
1972年には、「さそり座の女」が大ヒットしました。 占いが大流行するきっかけにもなりました。
美川憲一さんの現在
青春歌謡でデビューした美川は、「柳ヶ瀬ブルース」 を歌うのを嫌がったと言われています。 当時の社長に断りの気持ちを伝えたところ、 社長に激怒されて嫌々歌ったと後に語っています。
「柳ヶ瀬ブルース」を嫌々、 ぶっきらぼうに歌っていたのがかえって良かったのかもしれません 。
「柳ヶ瀬ブルース」は大ヒットしただけでなく、「 ご当地ソングの元祖」とまで言われるようになってしまいました。
更に、「柳ヶ瀬ブルース」は映画化され、 美川憲一の映画初演作品となりました。正に、 現在の美川憲一の礎を築いたのが「柳ヶ瀬ブルース」 だと言えるでしょう。
美川憲一は、現在、歌手活動よりも、 コメンテーターとしての活動の方が多いと感じています。
生い立ちから、壮絶な人生を歩まれ、人生の「酸いも甘いも」 を経験されてきた、美川憲一さん。
結構、厳しいコメントも見られますが、 美川憲一さんの壮絶な闘いを知れば、 私は納得出来る部分が多々あります。
近い世代の、美輪明宏さんも同じ苦労人の奥深さを感じます。
因みに、美輪明宏さんについては、下記URLをご参照ください。
https://singer-song-music.com/miwaakihirono-gennzai-442
要は、コメントを聞いた我々が、どのように聴くか? だと思います。
単に、苦言だと捉え、排除するならば、それだけのこと。
その言葉の奥にある、深い意味合いに思いを馳せるならば、 金言になり得るのだと思います。
更に、歌手活動についても、意欲満々です。
現在76歳の美川だが、「90歳までステージに上がって歌うのが 目標」と、まだまだやる気十分のようです。「キラキラと輝き続け るためにお金は自分に投資して、しぶとく生きていくわよ」 と宣言していました。
「人は、苦労が多いほど、他者に優しくなれる。」 と言う言葉を聞いた事があります。
人生で一番の底を経験している人は、それより上昇すると、 ちょっとした事でも感謝できるのだそうです。
そして、その一番の底を知るからこそ、 人に優しくなれるのだそうです。
そういった意味では、まだまだ私は、苦労知らずです。
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