美輪明宏の経歴と現在の活動は?歌手活動と名言が生まれた生きざま!

 美輪明宏さんは、長崎県出身のシャンソン歌手です。17歳でシャンソン歌手として専属契約を交わした事から本格的な歌手活動が始まりました。当時シャンソン歌手としての専属契約とは異例だったでしょう!
 生き延びるために、一生懸命に生きてきた美輪明宏さん。大変な苦労を乗り越えて、今の地位を築いてこられました。持って生まれた持ち前のルックスと努力で磨いた歌唱力を生かして、歌手として必死に活動を続けてこられました。
 美輪明宏さんは、ご苦労が多く、様々な経験もしてきたことが、俳優やコメンテーター等の仕事に生かされてきた稀有な存在と言えるでしょう。




美輪明宏さんの略歴

美輪 明宏(みわ あきひろ、1935年昭和10年〉5月15日[1] – )は、日本男性歌手

また俳優演出家タレント声優コメンテーターナレーターとしても活動している。

長崎県長崎市出身。本名及び1971年までの芸名は丸山 明宏(まるやま あきひろ)、幼名は丸山臣吾(しんご)。愛称はマルさん。

海星中学を経て国立音楽大学附属高校中退。兄と姉と弟のいる五人兄弟の次男。自らの個人事務所である、オフィスミワ(個人事務所)所属。身長161cm。

引用元:Wikipedia

長崎時代(1935年5月15日- 1951年)[編集]

1935年昭和10年5月15日水曜日)、長崎県長崎市おいて、丸山作一・ヌメの間に、5人兄弟の次男として誕生する。

美輪の実家は、長崎市内の「丸山遊郭」と呼称された遊郭街の近くで、「世界」という名前のカフェーや料亭を経営して成功を収めており、経済的に豊かな環境で育った[2]1941年12月、ギリスアメリカ合衆国との戦争体制に入った中で父親は「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」と言われて、やむ無くカフェーを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業する。

1945年昭和20年)8月9日、雲1つない快晴の日、長崎県長崎市本石灰町にある自宅において、当時10歳の美輪は窓際で夏休みの宿題に御伽草子の「万寿姫の絵を描いていた。絵の仕上がりを確認するため、2、3歩後方に下がった時、何千ものマグネシウムを焚いたような白い光をみた。その直後に、激しい爆発音が聞こえ、家がぐらぐら揺れて傾いた。それは原子爆弾によるものであった(長崎市への原子爆弾投下)。女中に促され2人で布団をかぶるとすぐさま空襲警報が鳴りだし、その後爆風で机の下に飛ばされていた兄を起こして、3人で防空壕に向かった[3]6日後の終戦の日に爆心地近くにあった生母の実家へ祖父母を1人で探しに行き、惨状を目の当たりにする[注釈 1][注釈 2]

原爆により、父の貸付先が相次いで破産・他界したため、返済を受けられなくなった美輪一家は貧乏生活を余儀なくされた。その前に美輪の父の後妻が他界しており、父の後々妻も失踪する等の不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送ることとなった。

終戦後、自身が鑑賞した映画に出演していた加賀美一郎ボーイソプラノに衝撃を受け、程無くして、声楽とピアノのレッスンを受け始める。海星中学では、同期に西岡武夫がいた。

引用元:Wikipedia

 美輪明宏さんは、壮絶な人生を送ってこられたのですね。裕福な家庭から一変して貧困生活。

しかも異母の弟たちとの生活。

更に、国立音楽高等学校に進学後も苦難な状況になってしましました。心優しい美輪明宏は、親戚に対して冷たい態度をとった父親に激怒しました。若さゆえの正義感からか、純粋さからか、大喧嘩に発展。そして、父親から、勘当同然の扱いを受け、経済的援助は絶たれました。

15歳になっていた美輪明宏は、収入を得るために、高校を辞め、アメリカ軍の兵士相手に歌を歌いました。

住む場所にも事欠いて、駅で寝泊まりしたこともありました。

17歳の美輪明宏は、いわゆる(水商売)関連のアルバイトをしながら、日銭を稼いでいたそうです。

張り紙広告を見て応募した、シャンソン喫茶で、歌手として専属契約を締結する事により、歌手活動を本格的に開始しました。

やっと軌道に乗り始めた、美輪明宏に、さらなる試練が待ち受ける。父親が事業に失敗したことで、弟たちの生活を守るために、アルバイトを掛け持ちした。

美輪明宏は本当に苦労人であり、弟たちの生活を支える、心優しい兄であったのです。

 

1957年、シャンソン「メケ・メケ」を日本語でカバーし、艶麗な容貌で、シャンソンを歌い上げ、一躍人気を博す。元禄時代小姓衣装を洋装に取り入れ、レース地のワイシャツ等を身に纏いユニセックスファッションと[注釈 3]、三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛した美貌で、マス・メディアから「神武以来の美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡する[4]。同じ、1957年製作の映画『』(増村保造監督。大映)に歌手として出演している。

引用元:Wikipedia

そんな、苦労人の美輪明宏は、ストイックに仕事に励みました。

当時、シャンソンで売り出すだけでも、なかなか勇気のいることであるが、昔の衣装や、レースのワイシャツ、ユニセックス等、様々なファッションで世の中を驚かせ、美輪明宏ブームを巻き起こした。

さらに、数々の有名人にの目に留まり、まさしく、一世を風靡したのです。

よく似た名前の美川憲一さんも、美輪明宏さんと並んで話題に上ります。美川憲一さんにつては、下記URLをご参照ください。

https://singer-song-music.com/mikawaken-iti-gennzai-jitakubaikyaku-468




美輪明宏の現在の歌手活動

 

美輪明宏氏の現在の歌手活動と言えば、「ヨイトマケの唄」ですね。

 

美輪明宏(80)が2015年12月31日、NHK紅白歌合戦で『ヨイトマケの唄』を歌い、最もインパクトのあった歌手として、またまたブレイクしております。私も当時見させていただきましたが、思わず聞き入ってしまいました。歴史の重さというか、言葉の重さというか、思いの深さというか。

歌詞も作曲も歌い方も舞台演出も、そのまま昭和時代にタイムスリップ。

若い方にはなじめないかもしれないが、私達アラ還には、心にしみます。

 華やかで、踊りや伴奏で盛り上げる楽曲が多い昨今、まさに、歌のみで勝負する本物の歌手の歌という感覚は忘れられません。

歌唱力を超越した、一つの舞台を見ているかのようなステージでした。それを提案した美輪明宏さんにも感謝感激ですが、それを認めたNHKにも拍手を送りたいと思うステージでした。

ヨイトマケの唄は1965年、美輪明宏が29歳のときに自身が作詞・作曲した、彼の思いが込められた曲です。日雇い労働者である母親とその息子の実話をもとにした曲であると、美輪明宏さんは語っておられます。ヒットしながらも当時、差別用語が入っているとの理由で、日本民間放送連盟から放送禁止曲に指定されてしまいました。<日本民間放送連盟ですから、NHKでは大丈夫ですよね>

私は個人的には、差別用語が入っているからという理由で放送禁止に指定されたというのは、違和感があります。(この違和感という言葉も本当は随分気を遣っています。本来ならばもっと強烈な言葉を使いたいくらいです。この記事が掲載禁止にならないために、あえて伏せておきます。)

差別用語という言葉を、放送禁止にしてしまうと余計に差別が助長されると思うことがしばしばです。実際、「ヨイトマケの唄」に差別用語があるとされたことで、その言葉が何なのかと疑問を持つ人が増えました。

その言葉が使われたかどうかではなく、その言葉がどういう意図で使われているかということだと思います。不真面目に、人を傷つける目的で使われるときは禁止にすべきです。差別意識を助長しますから。

しかし、「ヨイトマケの唄」のように、真面目に、真摯に、弱い立場の人を応援するために伝えられているこの唄の歌詞に、差別用語が使われているというのであれば、多くの楽曲に規制が加わるのではないかと思います。

例えは適切でないかもしれませんが、包丁の使い方と同じ考えです。包丁で人を殺傷したからと言って、料理番組において包丁を使用禁止にはなりませんよね。

 この唄は、美輪明宏の小学校時代の同級生とその母親をモデルにしていると語っています。

 ヨイトマケとは(ヨイっと巻け)を語源とする。滑車にまかれた重りを、巻き上げて落下させるときの、巻き上げの時に力を入れる時の掛け声「(ヨイっと)巻け!」からの造語だと言われています。

 美輪明宏が幼少期に 一緒だった友人の 実話を回顧する歌です。 主人公は 幼少期に 母親が日雇い労働者で あったことをきっかけにいじめを受けた下したぐれそうになりながらも高校と大学を卒業しエンジニアに成長した実話に基づいている 。いじめられても 母親を尊敬し 頑張って生き抜いてきた友人の話を元にして作られた曲であると言われています。

少年の母親は脚が不自由ながら、工事現場で働いていたそうです。力仕事の為、男ばかりの工事現場です。足が悪いためによろけることがありました。そのたびに、周囲から「やめちまえ」「ろくでなし」「迷惑なんだよ」などと罵声を浴びせられたそうです。

 この母親は、息子の前では胸を張り、大丈夫だという顔をしていました。しかし、少年は、母親の仕事の様子を見たことがあり、母親の苦悩にきづいていたのです。

少年は勉強やスポーツが不得手で、ケンカも弱くていじめられていました。少年は、母親に心配させたくないという理由で、いじめられている事を母親にも話せずにいました。

 ある日、少年の母親はとうとう、息子がいじめられていることに気がつきました。その時、母親は息子に、次のように語ったそうです。

 「喧嘩が強いから、偉いんじゃない。金持ちが、偉いんじゃない。勉強ができなくても貧乏でも、そういうのは関係ない。一番偉いのは、とにかく正直で、お天道様の前に胸を張って、誰にも指さされないように一生懸命働いて、正直に生きる。それが一番偉いんだよ。だから、お前は偉い。」

この、母親の言葉が、少年の心の支えになったそうです。

私の母親は昭和10年生まれです。つまり、美輪明宏さんと同学年です。その母親が、「けんかで勝っても意味がない。けんかで負けた方が、人として強くなる。いじめられても良いが、いじめる側には回るな。」とよく言われていました。極端ですが、「人に殺されても、人を殺す人になるな」と、よく言われました。

 美輪明宏が2015年に紅白で「ヨイトマケの唄」を披露するのは2012年に続き、2度目になりました。当時、三輪は紅白出演について次のように語っていました。

 「歌を邪魔しないように、黒子に徹したほうがいい」と黒髪で歌い、照明もピンスポットが当たるだけの簡素のものにされました。美輪明宏さんの希望であったそうです。

流石ですね。昭和時代を生き抜いた歌手です。歌だけで勝負するその姿勢に、プロ歌手としての矜持を感じます。そもそも、昭和時代の歌手は、このステージのような演出がスタンダードでしたから。

余計な照明やバックダンサーは不要だと私も思います。NHK紅白歌合戦は、周囲の応援?やダンスが多いので、NHKもよく許したと思います。

それだけ、「ヨイトマケの唄」は、虚飾を排した、歌だけの勝負だと私は思いうのです。

 




美輪明宏の現在~(名言の数々)~著作から

美輪明宏さんは、確か農業協同組合(JA)発行の 「家の光」で 「美輪明宏の人生相談」で相談に対する回答を20年間掲載されています。

実家が農家なので、2年位前までは、毎回楽しみにして読んでいました。(現在は農業をやめてしまったので、実家に家の光は届かなくなりました)

結構、厳しめのコメントが多いですが、お父様と喧嘩になり、15歳の時に単身で東京に出ていき、体一つで今の地位を築かれたことを考えると納得できます。

一読するだけでは、理解しにくい言葉もあるかもしれません。しかし、美輪明宏氏の経歴や、考え方についてわかろうとすることによって、わかってくる名言・格言が増えると思います。

最初から、「何いってるの?」「意味が解らない!」と思い込まずに、

美輪明宏氏は、「何故、このような言葉を記しているのか?」「どんな思いで、この言葉を発表しているのか?」等を考えると良いかと思います。

私も、何回か読み返し、自分の人生で悩んだことや苦しんだこと等を思い出しながら読んでいくことにより、理解できた言葉が多数ありました。

今後も、理解できていると思った言葉とともに、読み返して、今後の生き方の参考にしたいと思っています。

せっかく、この名言・格言集に出会えたのだから。




美輪明宏の略歴

美輪 明宏(みわ あきひろ、1935年昭和10年〉5月15日[1] – )は、日本男性歌手

また俳優演出家タレント声優コメンテーターナレーターとしても活動している。

長崎県長崎市出身。本名及び1971年までの芸名は丸山 明宏(まるやま あきひろ)、幼名は丸山臣吾(しんご)。愛称はマルさん。

海星中学を経て国立音楽大学附属高校中退。兄と姉と弟のいる五人兄弟の次男。自らの個人事務所である、オフィスミワ(個人事務所)所属。身長161cm。

引用元:Wikipedia

長崎時代(1935年5月15日- 1951年)[編集]

1935年昭和10年5月15日水曜日)、長崎県長崎市おいて、丸山作一・ヌメの間に、5人兄弟の次男として誕生する。

美輪の実家は、長崎市内の「丸山遊郭」と呼称された遊郭街の近くで、「世界」という名前のカフェーや料亭を経営して成功を収めており、経済的に豊かな環境で育った[2]1941年12月、ギリスアメリカ合衆国との戦争体制に入った中で父親は「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」と言われて、やむ無くカフェーを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業する。

1945年昭和20年)8月9日、雲1つない快晴の日、長崎県長崎市本石灰町にある自宅において、当時10歳の美輪は窓際で夏休みの宿題に御伽草子の「万寿姫の絵を描いていた。絵の仕上がりを確認するため、2、3歩後方に下がった時、何千ものマグネシウムを焚いたような白い光をみた。その直後に、激しい爆発音が聞こえ、家がぐらぐら揺れて傾いた。それは原子爆弾によるものであった(長崎市への原子爆弾投下)。女中に促され2人で布団をかぶるとすぐさま空襲警報が鳴りだし、その後爆風で机の下に飛ばされていた兄を起こして、3人で防空壕に向かった[3]6日後の終戦の日に爆心地近くにあった生母の実家へ祖父母を1人で探しに行き、惨状を目の当たりにする[注釈 1][注釈 2]

原爆により、父の貸付先が相次いで破産・他界したため、返済を受けられなくなった美輪一家は貧乏生活を余儀なくされた。その前に美輪の父の後妻が他界しており、父の後々妻も失踪する等の不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送ることとなった。

終戦後、自身が鑑賞した映画に出演していた加賀美一郎ボーイソプラノに衝撃を受け、程無くして、声楽とピアノのレッスンを受け始める。海星中学では、同期に西岡武夫がいた。

引用元:Wikipedia

 美輪明宏さんは、壮絶な人生を送ってこられたのですね。裕福な家庭から一変して貧困生活。

しかも異母の弟たちとの生活。

更に、国立音楽高等学校に進学後も苦難な状況になってしましました。心優しい美輪明宏は、親戚に対して冷たい態度をとった父親に激怒しました。若さゆえの正義感からか、純粋さからか、大喧嘩に発展。そして、父親から、勘当同然の扱いを受け、経済的援助は絶たれました。

15歳になっていた美輪明宏は、収入を得るために、高校を辞め、アメリカ軍の兵士相手に歌を歌いました。

住む場所にも事欠いて、駅で寝泊まりしたこともありました。

17歳の美輪明宏は、いわゆる(水商売)関連のアルバイトをしながら、日銭を稼いでいたそうです。

張り紙広告を見て応募した、シャンソン喫茶で、歌手として専属契約を締結する事により、歌手活動を本格的に開始しました。

やっと軌道に乗り始めた、美輪明宏に、さらなる試練が待ち受ける。父親が事業に失敗したことで、弟たちの生活を守るために、アルバイトを掛け持ちした。

美輪明宏は本当に苦労人であり、弟たちの生活を支える、心優しい兄であったのです。

 

1957年、シャンソン「メケ・メケ」を日本語でカバーし、艶麗な容貌で、シャンソンを歌い上げ、一躍人気を博す。元禄時代小姓衣装を洋装に取り入れ、レース地のワイシャツ等を身に纏いユニセックスファッションと[注釈 3]、三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛した美貌で、マス・メディアから「神武以来の美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡する[4]。同じ、1957年製作の映画『』(増村保造監督。大映)に歌手として出演している。

引用元:Wikipedia

そんな、苦労人の美輪明宏は、ストイックに仕事に励みました。

当時、シャンソンで売り出すだけでも、なかなか勇気のいることであるが、昔の衣装や、レースのワイシャツ、ユニセックス等、様々なファッションで世の中を驚かせ、美輪明宏ブームを巻き起こした。

さらに、数々の有名人にの目に留まり、まさしく、一世を風靡したのです。

よく似た名前の美川憲一さんも、美輪明宏さんと並んで話題に上ります。美川憲一さんにつては、下記URLをご参照ください。

https://singer-song-music.com/mikawaken-iti-gennzai-jitakubaikyaku-468

 




美輪明宏の現在(歌手)

美輪明宏の歌手活動

美輪明宏氏の現在の歌手活動と言えば、「ヨイトマケの唄」ですね。

 

美輪明宏(80)が2015年12月31日、NHK紅白歌合戦で『ヨイトマケの唄』を歌い、最もインパクトのあった歌手として、またまたブレイクしております。私も当時見させていただきましたが、思わず聞き入ってしまいました。歴史の重さというか、言葉の重さというか、思いの深さというか。

歌詞も作曲も歌い方も舞台演出も、そのまま昭和時代にタイムスリップ。

若い方にはなじめないかもしれないが、私達アラ還には、心にしみます。

 華やかで、踊りや伴奏で盛り上げる楽曲が多い昨今、まさに、歌のみで勝負する本物の歌手の歌という感覚は忘れられません。

歌唱力を超越した、一つの舞台を見ているかのようなステージでした。それを提案した美輪明宏さんにも感謝感激ですが、それを認めたNHKにも拍手を送りたいと思うステージでした。

ヨイトマケの唄は1965年、美輪明宏が29歳のときに自身が作詞・作曲した、彼の思いが込められた曲です。日雇い労働者である母親とその息子の実話をもとにした曲であると、美輪明宏さんは語っておられます。ヒットしながらも当時、差別用語が入っているとの理由で、日本民間放送連盟から放送禁止曲に指定されてしまいました。<日本民間放送連盟ですから、NHKでは大丈夫ですよね>

私は個人的には、差別用語が入っているからという理由で放送禁止に指定されたというのは、違和感があります。(この違和感という言葉も本当は随分気を遣っています。本来ならばもっと強烈な言葉を使いたいくらいです。この記事が掲載禁止にならないために、あえて伏せておきます。)

差別用語という言葉を、放送禁止にしてしまうと余計に差別が助長されると思うことがしばしばです。実際、「ヨイトマケの唄」に差別用語があるとされたことで、その言葉が何なのかと疑問を持つ人が増えました。

その言葉が使われたかどうかではなく、その言葉がどういう意図で使われているかということだと思います。不真面目に、人を傷つける目的で使われるときは禁止にすべきです。差別意識を助長しますから。

しかし、「ヨイトマケの唄」のように、真面目に、真摯に、弱い立場の人を応援するために伝えられているこの唄の歌詞に、差別用語が使われているというのであれば、多くの楽曲に規制が加わるのではないかと思います。

例えは適切でないかもしれませんが、包丁の使い方と同じ考えです。包丁で人を殺傷したからと言って、料理番組において包丁を使用禁止にはなりませんよね。

 この唄は、美輪明宏の小学校時代の同級生とその母親をモデルにしていると語っています。

 ヨイトマケとは(ヨイっと巻け)を語源とする。滑車にまかれた重りを、巻き上げて落下させるときの、巻き上げの時に力を入れる時の掛け声「(ヨイっと)巻け!」からの造語だと言われています。

 美輪明宏が幼少期に 一緒だった友人の 実話を回顧する歌です。 主人公は 幼少期に 母親が日雇い労働者で あったことをきっかけにいじめを受けた下したぐれそうになりながらも高校と大学を卒業しエンジニアに成長した実話に基づいている 。いじめられても 母親を尊敬し 頑張って生き抜いてきた友人の話を元にして作られた曲であると言われています。

少年の母親は脚が不自由ながら、工事現場で働いていたそうです。力仕事の為、男ばかりの工事現場です。足が悪いためによろけることがありました。そのたびに、周囲から「やめちまえ」「ろくでなし」「迷惑なんだよ」などと罵声を浴びせられたそうです。

 この母親は、息子の前では胸を張り、大丈夫だという顔をしていました。しかし、少年は、母親の仕事の様子を見たことがあり、母親の苦悩にきづいていたのです。

少年は勉強やスポーツが不得手で、ケンカも弱くていじめられていました。少年は、母親に心配させたくないという理由で、いじめられている事を母親にも話せずにいました。

 ある日、少年の母親はとうとう、息子がいじめられていることに気がつきました。その時、母親は息子に、次のように語ったそうです。

 「喧嘩が強いから、偉いんじゃない。金持ちが、偉いんじゃない。勉強ができなくても貧乏でも、そういうのは関係ない。一番偉いのは、とにかく正直で、お天道様の前に胸を張って、誰にも指さされないように一生懸命働いて、正直に生きる。それが一番偉いんだよ。だから、お前は偉い。」

この、母親の言葉が、少年の心の支えになったそうです。

私の母親は昭和10年生まれです。つまり、美輪明宏さんと同学年です。その母親が、「けんかで勝っても意味がない。けんかで負けた方が、人として強くなる。いじめられても良いが、いじめる側には回るな。」とよく言われていました。極端ですが、「人に殺されても、人を殺す人になるな」と、よく言われました。

 美輪明宏が2015年に紅白でヨイトマケの唄を披露するのは2012年に続き、2度目になりました。当時、三輪は紅白出演について次のように語っていました。

 「歌を邪魔しないように、黒子に徹したほうがいい」と黒髪で歌い、照明もピンスポットが当たるだけの簡素のものにされました。美輪明宏さんの希望であったそうです。

流石ですね。昭和時代を生き抜いた歌手です。歌だけで勝負するその姿勢に、プロ歌手としての矜持を感じます。そもそも、昭和時代の歌手は、このステージのような演出がスタンダードでしたから。

余計な照明やバックダンサーは不要だと私も思います。NHK紅白歌合戦は、周囲の応援?やダンスが多いので、NHKもよく許したと思います。




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